人は誰でも、自分には「自分」という確かな存在があると感じています。昨日の自分も今日の自分も同じ自分であり、過去の経験を記憶し、家族や友人との関係を持ち、これから先の人生を考えながら生きています。
ところが、病気や老いによって記憶が失われたり、これまでの役割を果たせなくなったりすると、「自分とは何か」という問いが浮かび上がります。認知症が進行した人が、長年暮らしてきた家を自分の家だと認識できなくなることがあります。死が近づいた人が、すでに亡くなった親や兄弟に会っているかのように語ることもあります。そうした変化を目の当たりにすると、私たちが当然だと思っている「自分」という存在が、実は記憶や人間関係、周囲の世界との結びつきによって支えられていることに気づかされます。
終末期医療に携わってきた医師の大井玄は、こうした臨床経験を手掛かりに、人間の自己意識と死の関係を考察しています。そこでは、死を単に生命活動の停止として捉えるのではなく、「自分」という存在がどのように形づくられ、どのように変化し、世界とのつながりのなかで何を意味しているのかが問われます。
重要なのは、死を受け入れるために、誰もが同じ心理的な境地に到達しなければならないわけではないということです。自分を独立した存在として捉える人と、家族や自然、社会とのつながりのなかで自分を捉える人とでは、死に対する感じ方も異なる可能性があります。
「自分の死」を考えることは、人生の終わりを想像するだけでなく、そもそも自分とは何者なのか、私たちは何によって生かされているのかを問い直すことなのです。
- 1. 「自分」とは何か――変わらない存在という思い込み
- 2. 終末期に現れる「自分」――記憶が変わると世界も変わる
- 3. いまの自分だけが「本当の自分」なのか
- 4. 私たちが見ている世界は、記憶によって形づくられる
- 5. つながりを感じない「自分」――日常生活の背後にある関係
- 6. 死を自然なものとして感じるには
- 7. 「アトム的自己」と「つながりの自己」
- 8. 死への態度は、自己の捉え方によって変わる
- 9. つながりを感じている死――孤立から関係のなかへ
- 10. 宇宙とのつながり――自分を世界から切り離さない
- 11. 「自分の死」を考えることは、生き方を問い直すこと
- 12. 「自分の死」を死ぬとは――つながりのなかで生きた人生を見つめる
1. 「自分」とは何か――変わらない存在という思い込み
自分はいつも同じ自分なのだろうか
朝食を食べたのも、仕事をしたのも、家族と話したのも自分です。昨日の出来事を思い出し、明日の予定を考えるときにも、私たちは過去から未来へと連続する一人の自分を想定しています。
普段の生活では、この感覚を疑う必要はほとんどありません。名前があり、職業があり、家族や友人がいて、自分なりの性格や好みがある。こうした要素が一つにまとまっているため、自分という存在は明確で、安定しているように感じられます。
しかし、臨床の現場で病気や認知機能の低下を経験する人々を観察すると、自分という存在は、必ずしも一生変わらない固定的なものではないことが見えてきます。
たとえば、認知症が進行した高齢者が、現在暮らしている家を自分の家だと認識できず、子どもの頃に住んでいた家へ帰ろうとすることがあります。家族が「ここは何十年も住んできた家ですよ」と説明しても、本人は納得しません。
周囲から見れば、本人が間違った認識をしているように思えます。しかし、本人の側では、幼い頃の記憶や、その記憶に結びついた感情が、現在の自分を形づくっている可能性があります。現在の住所や家族関係を正しく理解できなくなっても、過去の自分の感覚が完全に消えたわけではありません。
このような事例から考えられるのは、私たちが「自分」と呼ぶものが、単なる身体ではなく、記憶や経験、社会的な役割などの複雑な組み合わせによって成り立っているということです。
自分を形づくるのは、記憶と人間関係である
私たちは、自分の名前や生まれ育った場所、過去の経験を覚えているからこそ、自分の人生を一つの連続した物語として理解できます。
初めて学校へ行った日の記憶、親との思い出、仕事で成功した経験、失敗から学んだこと。そうした出来事が互いにつながることで、「自分はこういう人間だ」という自己理解が生まれます。
さらに、自分自身についての理解は、他者との関係にも支えられています。親にとっての子ども、誰かの配偶者、職場の同僚、地域社会の一員といった役割は、自分がどのような人間であるかを教えてくれます。
仮に、ある人が記憶を失い、家族の名前も自分の職業も思い出せなくなったとしましょう。周囲の人がその人を以前と同じ名前で呼び続けても、本人の内側では、過去の自分と現在の自分をつなぐ感覚が弱まっているかもしれません。
ここで注意したいのは、記憶や能力が失われれば、その人の価値まで失われるわけではないという点です。自己を支える要素が変化しても、その人には身体的な感覚や感情、他者との関係が残っている場合があります。言葉で十分に表現できなくても、安心できる声や触れ方に反応することもあります。
つまり、「自分」を記憶や役割だけで定義することはできません。自己は記憶によって形づくられると同時に、他者との関係や、言葉にならない感覚によっても支えられているのです。
「本当の自分」は一つだけなのか
私たちは、自分のなかには変わらない本質があり、状況が変わっても本当の自分は同じだと考えがちです。しかし、実際には、家庭にいるときの自分、仕事をしているときの自分、友人と過ごすときの自分は、少しずつ異なっています。
仕事では厳格な人が、孫の前では穏やかになることもあります。普段は控えめな人が、得意な分野について話すときには積極的になることもあります。こうした違いは、必ずしも偽りの自分を演じていることを意味しません。人は関係や状況に応じて異なる側面を表す存在なのです。
大井が示す自己の捉え方も、固定された一つの人格だけを「本当の自分」とみなす考え方に疑問を投げかけます。
この視点は、老いや病気を理解するときに重要です。以前と性格が変わったように見える人に対して、「昔のあの人ではなくなってしまった」と考えることは簡単です。しかし、変化した姿も、その人の人生の一部です。
自分とは、何か一つの不変の性質ではなく、記憶や感情、人間関係、身体の状態などが織り重なって、その時々に現れる存在なのかもしれません。
2. 終末期に現れる「自分」――記憶が変わると世界も変わる
認知症の人が暮らしている世界
認知症の人が、現在の家を昔の家だと思ったり、目の前の人を亡くなった家族だと認識したりすることがあります。周囲の人は、誤りを正そうとして説明を繰り返すかもしれません。
しかし、本人にとって、その場面は単なる間違いではなく、本人の記憶や経験を基礎として構成された世界である可能性があります。
大井は、記憶が薄れていく過程を通して、それまでまとまりを持っていた自己が少しずつほどけていくように見えると論じています。名前、家族、職業、住んでいる場所、過去の出来事などは、互いに結びつくことで一人の人間の人生を形づくります。ところが、記憶の働きが変化すると、それらの結びつきも変わっていきます。
たとえば、ある高齢者が病院の一室を、かつて働いていた店だと思い込んでいるとします。本人がその場所を店として認識しているなら、周囲の職員は店員のように見えるかもしれません。本人の行動や言葉も、現在の病院という環境より、過去の仕事の経験に沿って現れることがあります。
このような状態を理解するには、本人が何を見て、何を感じ、どのような世界を経験しているのかを考える必要があります。現実を正確に認識させることだけに集中すると、本人がその世界で感じている不安や安心を見落とすおそれがあります。
人生の物語がほどけていく
人間は、生まれたときから現在までの出来事を、すべて同じように覚えているわけではありません。それでも、記憶をつなぎ合わせ、家族や友人と過去を語り合うことで、自分の人生を一つの物語として理解しています。
認知機能が低下すると、その物語の筋道が少しずつ失われていくことがあります。以前は明確だった時間の順序が曖昧になり、親しかった人の名前が出てこなくなり、自分がどこで何をしているのか分からなくなることもあります。
それは、本人にとって、自分を支えていた世界とのつながりが変化する経験でもあります。周囲の人が本人の過去を知っている場合、昔の写真を見たり、懐かしい音楽を聴いたりすることで、会話や感情が引き出されることがあります。
こうした関わりは、単に記憶力を回復させるためだけのものではありません。本人が大切にしてきた経験や感情を、周囲の人と分かち合う機会にもなります。
一方、記憶が失われる過程を「自然に土へ還っていくこと」と表現する考え方には、慎重さも必要です。認知症は本人や家族に大きな苦痛をもたらすことがあり、医療や介護による支援が欠かせません。変化を自然な過程として捉えることは、苦痛を軽視したり、必要な治療や支援を諦めたりする理由にはなりません。
大切なのは、記憶が変化した人を、以前の姿と比べて失われたものだけで評価しないことです。現在のその人が何を感じ、どのような関係を求めているのかを理解することが求められます。
亡くなった人と話しているように見えるとき
終末期の患者が、すでに亡くなった親や兄弟に話しかけたり、誰かがそこにいるかのように視線を向けたりすることがあります。医療の立場からは、意識状態の変化や幻覚、幻視などとして理解される場合があります。
しかし、大井は、こうした場面を単に異常な現象として切り捨てず、患者が長年の記憶や親しい人とのつながりを感じている可能性にも目を向けています。死が近づいた人が、過去に親しかった人々と再会しているかのように振る舞う姿に、臨床医として慰めを感じることもあると述べています。
もちろん、亡くなった人の姿が実際に見えているのか、死後の世界との交流が起きているのかについて、こうした観察だけで結論を出すことはできません。終末期には、身体の状態や薬剤、意識の変化など、医学的に検討すべき要因もあります。
それでも、患者にとってその体験が安心をもたらしているなら、周囲がすぐに否定したり、本人を不必要に不安にさせたりしない配慮は重要です。体験の医学的な意味を確認することと、本人が感じている安心や感情を尊重することは、両立できます。
終末期の人が経験する世界は、外から観察する人の世界と必ずしも同じではありません。その違いを理解しようとする姿勢が、死にゆく人へのケアを支えます。
3. いまの自分だけが「本当の自分」なのか
人間の意識には、さまざまな状態がある
私たちは、普段目覚めているときの意識を、自分の意識のすべてだと考えています。しかし、眠っているときの夢、強い感情に支配されたときの判断、酒に酔ったときの言動などを振り返ると、意識や行動が状況によって変化することは明らかです。
心理学者であり哲学者でもあったウィリアム・ジェームズは、通常の覚醒状態の意識が、人間の意識の一つの形態にすぎない可能性を論じました。人間には、普段は意識されていない心的な状態や経験があり、特定の条件のもとで異なる意識状態が現れることがあるという考え方です。
大井は、こうした議論を手掛かりに、現在の意識だけを絶対的な「自分」とみなすことに疑問を投げかけています。
ただし、意識状態の変化や解離などの心理現象を、すべて同じ仕組みで説明することはできません。現在の心理学や精神医学では、複数の要因を考慮して個別に理解する必要があります。重要なのは、普段の自分だけが唯一の自分であり、それ以外の状態はすべて偽物だと簡単に決めつけないことです。
状況によって変わる自己の姿
たとえば、普段は穏やかな人が、強いストレスのもとで攻撃的な言葉を口にすることがあります。本人が後からその言動を恥じたり、なぜあのような行動をしたのか分からないと感じたりすることもあります。
このとき、普段の姿と、ストレス下で現れた姿のどちらが本当の自分なのでしょうか。
単純に一方だけを選ぶことはできません。人間は状況や身体の状態、感情、周囲との関係によって変化します。ある場面で現れた姿も、その人の経験や状態の一部として理解する必要があります。
この視点は、終末期の患者を理解するうえでも役立ちます。病気になる前は自立心が強かった人が、介助を受けるようになって怒りっぽくなることがあります。あるいは、普段は家族に弱みを見せなかった人が、死を前にして不安を口にすることもあります。
その変化を「性格が悪くなった」「弱くなった」とだけ捉えるのではなく、身体の苦痛や生活環境の変化、役割を失うことへの戸惑いなどを考慮する必要があります。
人間は、いつも一貫した人格を保てるわけではありません。自己の変化を認めることは、その人の尊厳を損なうのではなく、むしろ人間の複雑さを理解することにつながります。
4. 私たちが見ている世界は、記憶によって形づくられる
目の前の現実を、そのまま見ているわけではない
私たちは、自分の目の前にある世界を、そのまま客観的に見ていると思いがちです。しかし、ある物が何であるか、どのような意味を持つかを理解するためには、過去の経験や知識が必要です。
たとえば、テニスラケットを見て、それが何に使われる道具なのか分かるのは、過去にその名前や用途を学んでいるからです。もし名前も機能もまったく知らなければ、目の前の物を見ても、それが何であるかを十分に理解できないでしょう。
私たちは、現在の感覚情報だけで世界を理解しているのではありません。記憶や知識を使って、目の前のものに意味を与えています。
大井は、こうした仕組みを「記憶の網目」というイメージで説明しています。自分自身も、名前や家族関係、職業、過去の経験などが結びついた網目のなかで認識されています。記憶の結びつきが変われば、自分や周囲の世界の見え方も変わる可能性があるのです。
記憶の網目が変わると、世界の意味も変わる
認知症の人が病院を自分の働いていた店だと思ったり、施設の一室を昔の住まいだと感じたりすることがあります。その人が見ている建物や人々は、現在の環境に存在しているものですが、本人がそれらに与える意味は、過去の記憶によって変化しています。
この現象は、認知機能が低下した人に限られたものではありません。健康な人でも、自分の期待や信念に合う情報を重視し、それと矛盾する情報を軽視することがあります。
たとえば、自分が正しいと信じている意見に賛成する情報ばかりを集め、反対の証拠を無視してしまうことがあります。大切な人を失った人が、何気ない音や匂いをきっかけに、その人がまだ近くにいるように感じることもあるでしょう。
もちろん、こうした現象と認知症による認識の変化は、医学的には区別して考える必要があります。しかし、いずれの場合も、人間が世界を意味づけるとき、記憶や感情、期待が大きな役割を果たしていることを示しています。
医療や介護では、本人の世界を理解することが重要になる
介護の現場で、認知症の人が「家に帰りたい」と訴えたとします。支援者が「ここがあなたの家です」と繰り返し説明しても、本人の不安が消えないことがあります。
このとき、本人が求めているのは、住所についての正確な情報だけではないかもしれません。慣れ親しんだ場所に戻りたい、安心できる人に会いたい、自分がどこにいるのか分からない不安から逃れたいという気持ちがある可能性があります。
本人の言葉を文字どおりに受け取るだけでなく、その言葉がどのような感情や記憶につながっているのかを考えることが大切です。
たとえば、昔の住まいや家族について話を聞いたり、本人が安心できる物や音楽を用意したりすることで、落ち着きを取り戻せる場合があります。もちろん、対応は本人の状態によって異なり、安全の確保や医学的な評価も必要です。
ここから学べるのは、支援者が知っている客観的な情報だけが、本人にとっての世界のすべてではないということです。本人が何を感じ、どのような意味を見いだしているのかを理解しようとすることが、適切なケアの出発点になります。
5. つながりを感じない「自分」――日常生活の背後にある関係
空気の存在を忘れている私たち
私たちは、普段、呼吸をするために必要な空気の存在を意識していません。ところが、呼吸が苦しくなると、空気がどれほど大切なものだったのかを痛感します。
これは、人間と世界とのつながりにも当てはまります。私たちは、日常生活が問題なく進んでいるとき、自分が多くの人や自然の働きに支えられていることを忘れがちです。
食事を例に考えてみましょう。私たちが食卓でご飯を食べるまでには、農作業をする人、収穫物を運ぶ人、精米する人、販売する人、料理する人など、多くの人が関わっています。さらに、稲が育つためには、土、水、太陽光、気温などの条件が必要です。
目の前の一杯のご飯は、単独で存在しているわけではありません。自然の働きと人間の労働、物流や社会制度などが結びついた結果として、私たちの食卓に届いています。
しかし、食べ物を購入するだけで生活できる環境では、その背景にある関係を実感する機会は多くありません。商品を買えば必要なものが手に入るため、自分がどのような人々や自然環境に支えられているのかを考えなくても暮らせてしまうからです。
一粒の米にも、世界とのつながりがある
大井は、食べ物を通して世界とのつながりを考えています。たとえば、エビの料理を食べるとき、そのエビがどこで獲られ、どのような労働条件のもとで生産され、どのような流通経路を通って届いたのかを、私たちは普段あまり意識しません。
しかし、食べ物の生産と消費は、国境を越えた経済や、働く人々の生活、地域の自然環境と結びついています。自分の食卓は、自分の家のなかだけで完結しているわけではありません。
このことは、環境問題や貧困、労働条件を考えるうえでも重要です。私たちが便利で豊かな生活を送る一方で、その生産過程を支える人々が厳しい生活条件に置かれていることがあります。自分の生活を他者から切り離して考えると、こうした関係が見えにくくなります。
もちろん、世界とのつながりを意識したからといって、すべての問題を個人の努力だけで解決できるわけではありません。それでも、自分の生活が他者や自然に支えられていることを理解すれば、消費や社会参加のあり方を見直すきっかけになります。
死を考えるときにも、この視点は重要です。自分を完全に独立した存在だと考えるなら、死は、自分という世界が消滅する出来事として感じられるかもしれません。反対に、自分が多くの人や世界とのつながりのなかで生きていると実感していれば、死を別の角度から捉える可能性があります。
他者とのつながりは、人生の意味を支える
戦争を生き延びた人が、亡くなった戦友たちとのつながりを長く感じ続けることがあります。自分だけが生き残ったという事実を、単なる幸運として受け止めるのではなく、亡くなった人々の存在を背負って生きていると感じる場合もあります。
このような経験では、自分の人生は、自分だけのものではありません。過去に出会った人々や、共に経験した出来事が、現在の自分の生き方に影響を与え続けています。
大切な人を失った後も、その人から教わったことや、共に過ごした記憶が残ることがあります。亡くなった人の言葉を思い出しながら、人生の選択をすることもあるでしょう。身体としての相手がいなくなっても、その人との関係が自分のなかで意味を持ち続けるのです。
ただし、つながりを感じることが、必ずしも死の恐怖をなくすわけではありません。人間関係が豊かな人でも、死を怖がることはあります。大井の議論は、死への態度を考えるうえで、自己を孤立した存在とみなすか、関係のなかにある存在とみなすかが、一つの重要な視点になることを示しています。
6. 死を自然なものとして感じるには
現代社会では、死が日常生活から遠ざけられている
かつては、家族や地域の人が自宅で亡くなり、身近な人々が看取りや葬送に関わる機会が、現在よりも多くありました。しかし、医療技術の発達や病院で最期を迎える人の増加によって、多くの人にとって死は日常生活から離れた出来事になっています。
病気が見つかれば、検査や治療が行われます。薬や手術によって、以前なら命を落としていた病気が治ることもあります。こうした医学の進歩は、人々の命を救い、生活を支える大きな成果です。
その一方で、医療によって病気を治したり、生命を長く維持したりできるという経験が積み重なると、死を自然な生命の過程として感じにくくなることがあります。治療すれば回復できるはずだ、何とかすれば死を避けられるはずだという期待が強まるためです。
もちろん、治療の可能性を追求すること自体が問題なのではありません。問題は、死を常に医療の失敗と捉え、避けられない変化として考えることが難しくなる場合です。
医療には、命を救うことと同時に、治癒が難しいときに苦痛を和らげ、本人の生活を支える役割もあります。死を自然なものとして考えることは、治療を諦めることではなく、生命には限りがあるという現実も含めて医療の目的を考えることです。
自然のなかで、生と死の連続性を感じる
大井は、自然のなかで動植物の生と死を目にする経験が、死に対する感覚を変える可能性について述べています。
植物は芽を出し、成長し、花を咲かせ、やがて枯れます。動物も生まれ、成長し、老い、死を迎えます。こうした変化が日常的に見られる環境では、死は生命の流れから切り離された特別な出来事ではなく、自然の一部として感じられる場合があります。
自然のなかで暮らしたり、季節の移り変わりを身近に感じたりすることで、人間もまた生命の循環の一部であると実感することがあるでしょう。
ただし、自然に親しめば誰もが死を恐れなくなるわけではありません。死の受け止め方は、個人の経験や文化、信仰、病状、家族関係などによって異なります。自然とのつながりは、死への不安を考えるための一つの手掛かりです。
死に慣れることと、死を軽視することは違う
死を自然なものとして受け止めることは、命を軽く考えることではありません。むしろ、命には限りがあることを理解するからこそ、いま生きている時間や、他者との関係を大切にできる場合があります。
身近な人の死を経験したとき、私たちは悲しみや喪失感を抱きます。自然のなかで生と死の連続性を感じていても、愛する人との別れが簡単になるわけではありません。死を自然なものとして理解することと、個別の死に深い悲しみを感じることは、両立します。
重要なのは、死を遠ざけて考えないようにすることだけが、心を守る方法ではないということです。死について語り、看取りや葬送に関わり、亡くなった人を思い出すことによって、少しずつ死を自分の人生のなかに位置づけられる場合があります。
死に慣れるとは、死を何とも思わなくなることではありません。生と死の関係を理解し、限りある生命を自然や人間関係のなかで捉え直すことなのです。
7. 「アトム的自己」と「つながりの自己」
自分を独立した存在として捉える
大井の議論の中心にあるのが、「アトム的自己」と「つながりの自己」という二つの自己観です。
アトム的自己とは、自分を他者から独立した存在として捉える考え方です。自分には固有の性格や能力、意思があり、自分の人生は自分で決めるものだと考えます。自分の目標を実現し、個人としての能力を発揮することが、自己実現の重要な要素になります。
この自己観では、自分は独立した一つの世界のように感じられます。そのため、自分が死ぬことは、自分だけの世界が完全に消滅することとして受け止められる可能性があります。
死を告げられたとき、「なぜ自分が死ななければならないのか」「ほかの人は生きているのに、なぜ自分だけが」と感じることがあるのも、自分の存在を独立したものとして捉える意識と関係しているのかもしれません。
これは、個人の意思や権利を大切にする考え方と結びつく面もあります。自分の人生を自分で決めることや、自分の希望を医療者や家族に伝えることは、尊厳を守るうえで重要です。アトム的自己を、単純に悪いものと考える必要はありません。
ただし、自分を他者や世界から完全に切り離された存在として捉えると、自分の死を、世界全体が消滅するかのように感じてしまうことがあります。
自分は他者との関係のなかに存在する
これに対して、つながりの自己とは、自分を他者や社会との関係のなかで捉える考え方です。
人間は、自分一人の力だけで生きているわけではありません。親から生命を受け取り、家族や友人に支えられ、社会の制度や自然環境に依存しながら暮らしています。自分の意思で行動するときにも、他者の希望や生活への影響を考慮することがあります。
この自己観では、自己実現は、個人の能力を発揮することだけでなく、他者との関係のなかで役割を果たし、感謝されたり、信頼されたりすることとも結びつきます。
たとえば、家族の世話をすることに生きがいを感じてきた人にとって、自分の人生の意味は、個人としての成果だけでは説明できません。子どもを育てたこと、親を看取ったこと、地域の人々と支え合ってきたことなどが、自分の人生を形づくっています。
このような人にとって、自分の死は、自己という独立した存在が消えることだけではなく、他者とのつながりのなかで自分が担ってきた役割を終えることとして捉えられる可能性があります。
ただし、つながりを大切にする人が必ず死を穏やかに受け入れるわけではありません。家族に迷惑をかけたくないという思いが強すぎて、自分の苦痛や希望を言い出せなくなることもあります。人間関係は支えになる一方、本人に負担を与える場合もあります。
二つの自己観は、文化によって異なるのか
大井は、文化心理学の議論を踏まえ、北米や西欧などではアトム的自己に近い自己観が比較的優勢であり、アジアやアフリカなどでは、他者との関係を重視する自己観が比較的強いと論じています。
ただし、これは文化を理解するための大まかな枠組みであり、地域の人々がすべて同じ自己観を持つという意味ではありません。同じ社会のなかでも、個人の経験や家族関係、宗教、職業、世代によって考え方は異なります。
また、個人の自立を重視する文化であっても、家族や共同体とのつながりが重要な人はいます。反対に、家族関係を重視する文化であっても、自分の意思や個人としての希望を強く持つ人はいます。
この二つの自己観は、人間を二種類に分類するためのものではなく、自分と他者の関係をどのように理解しているかを考えるための視点です。
死への態度を理解するときにも、本人が自分の人生をどのように捉え、何とのつながりを大切にしているのかを知ることが重要になります。
8. 死への態度は、自己の捉え方によって変わる
なぜ自分の死を受け入れにくいのか
人は、自分がいつか死ぬと頭では理解していても、その現実を自分自身のこととして受け止めるのは難しい場合があります。
大井は、自己を独立した存在として捉える意識が強いと、自分が死ぬことを、世界のなかにある一つの自然現象としてではなく、自分という存在全体が失われる出来事として感じやすいと考えます。
自分には仕事があり、家族があり、やりたいことがあり、これから先の計画もあります。そうした人生の連続性が突然断たれると考えると、死は受け入れがたいものになります。
このとき、死への恐怖は、単に生命活動が停止することへの恐怖だけではありません。自分が大切にしてきた関係や役割を失うこと、未来を経験できなくなること、自分の存在を確かめられなくなることへの恐怖も含まれます。
死を受け入れにくい人に対して、理屈を説明して納得させようとしても、必ずしも十分な支援にはなりません。その人にとって何が失われるように感じられるのかを理解することが必要です。
五段階説だけでは捉えきれない死の受け止め方
エリザベス・キューブラー・ロスは、死に直面した人の心理を、否認、怒り、取引、抑うつ、受容という五段階から説明しました。この理論は、死を前にした人の感情を理解するために大きな影響を与えています。
大井は、このような心理の変化が、自己を独立した存在として捉える人に当てはまりやすい一方、他者とのつながりを強く意識する人には、異なる形で現れる場合があると考えています。
たとえば、死を告げられた人が、怒りをあまり表に出さず、周囲の人々の気持ちを気遣いながら、これまでどおりの生活を続けようとすることがあります。本人が死を知らないふりをしているように見えても、実際には自分の病状を理解している場合もあります。
その行動は、単に死を否認しているからとは限りません。本人にとって、家族や同僚との関係を維持することが重要であり、死について語ることで周囲の人々を動揺させたくないと考えている可能性もあります。
反対に、怒りを強く表現する人が、必ずしも他者とのつながりを感じていないわけでもありません。家族や医療者に対して強い不満を示す背景には、もっと生きたいという願いや、支えてほしいという気持ちが隠れていることもあります。
したがって、五段階説を患者の心理を判定する絶対的な基準にすることはできません。死に直面した人の反応は、その人の自己観や人生経験、人間関係、身体的な苦痛などを含めて理解する必要があります。
周囲とのつながりを守るために、病状を語らない人
大井は、死が近いことを理解しながらも、家族や周囲の人々にそれを積極的に伝えず、これまでどおりの関係を保とうとする人の姿にも注目しています。
本人が病状を知っていても、その事実をあえて口にしないことで、周囲の人々が返答に困ったり、過度に動揺したりすることを避けようとする場合があります。
これは、死を受け入れていないからだと単純に解釈できるものではありません。本人が、残された時間を家族と普段どおりに過ごすことを大切にしている可能性もあるからです。
ただし、病状や予後についての情報を誰にどこまで伝えるかは、本人の意思や知る権利にも関わる重要な問題です。家族が本人の意思を確認せずに情報を隠したり、本人が望んでいるのに説明を避けたりすることは、適切ではありません。
大切なのは、死について語ることを一律に求めることでも、語らないことを美徳とすることでもありません。本人がどのような情報を望み、誰と何を話したいと考えているのかを確かめ、その意思を尊重することです。
9. つながりを感じている死――孤立から関係のなかへ
死は、すべての関係が消えることなのか
自分を独立した存在として捉えると、死は、自分の世界が完全に消えることとして感じられます。しかし、自分が他者との関係のなかで生きていると考えれば、死の意味は少し異なって見えるかもしれません。
人間は、生きている間に多くの人と出会い、さまざまな関係を築きます。親から受け継いだ習慣、友人との思い出、仕事で学んだこと、子どもに伝えた言葉などは、その人が亡くなった後も、他者の記憶や行動のなかに残ることがあります。
これは、死後の世界が存在するという主張とは異なります。亡くなった人の身体や意識がどうなるのかについて結論を出さなくても、その人が生きている間に築いた関係が、他者の人生に影響を与え続けることは理解できます。
たとえば、親を亡くした人が、親から教わった考え方を子どもに伝えることがあります。恩師の言葉を思い出しながら、人生の選択をする人もいるでしょう。亡くなった人は、現在の世界に身体として存在していなくても、その人との関係は、生きている人のなかで意味を持ち続けます。
死を考えることは、こうしたつながりをどのように受け止めるかを考えることでもあるのです。
家族や祖先とのつながりが支えるもの
大井は、死を自然な生命の循環のなかで捉える文化や、家族・祖先とのつながりを重視する生活のあり方にも目を向けています。
たとえば、ある地域社会では、死を迎える人が子どもや孫、親族を病床に呼び、一人ひとりに別れを告げることがあります。その行為は、単に個人が別れの言葉を伝えるだけではなく、自分が家族の歴史のなかでどのような位置を占めているのかを確かめる機会にもなります。
自分が生きてきた世界には、先に亡くなった人々がいて、現在を生きる人々がいて、これから生まれてくる人々がいます。そうした生命の連続性を感じることによって、自分の死を、世界から完全に切り離される出来事としてではなく、世代の交代や生命の循環の一部として捉えることがあります。
もちろん、家族との関係が必ずしも良好とは限りません。親族とのつながりが苦痛の原因になる人もいれば、家族より友人や地域社会との関係を大切にする人もいます。すべての人に同じ形のつながりを求めることはできません。
重要なのは、本人がどのような関係を大切にしてきたかを知ることです。家族、友人、地域、宗教、自然、仕事など、人によって支えとなるつながりは異なります。
自分の人生は、世界のなかで続いていく
死を迎える人が、これまで担ってきた役割を振り返り、周囲の人々に感謝を伝えることがあります。自分が生きてきたことに意味があったと感じられることは、最期の時間を支える一つの要素になるでしょう。
ただし、人生に意味を見いだせるかどうかを、本人に強制してはいけません。死を前にして、後悔や怒り、悲しみを感じ続ける人もいます。人生をきれいな物語としてまとめられないこともあります。
それでも、本人が語りたいことを聞き、過去の出来事を一緒に振り返り、本人が大切にしてきた関係を確認することには意味があります。人生を振り返ることは、必ずしもすべてを肯定することではありません。失敗や後悔も含めて、自分の歩みを自分なりに理解する機会になるからです。
死にゆく人が、自分の人生を他者との関係のなかで捉え直せるように支えること。それは、死の恐怖を完全になくすことはできなくても、孤独を和らげ、残された時間を本人らしく過ごすための助けになり得ます。
10. 宇宙とのつながり――自分を世界から切り離さない
自分の存在は、無数の関係から成り立っている
大井は、人間の生命が長い時間をかけて受け継がれてきたことにも注目しています。自分が存在するためには、両親が存在し、その両親にもまた親がいました。生命の連鎖をたどれば、人間は長い進化の歴史のなかに位置づけられます。
また、私たちの身体は、食べ物や水、空気、温度など、周囲の環境に支えられています。身体を構成する物質も、自然界の循環と無関係ではありません。
この視点に立つと、自分は世界から独立して存在するものではなく、無数の条件や関係によって成り立っていることが分かります。
仏教の「縁起」という考え方も、物事がそれ単独で存在するのではなく、さまざまな条件や関係によって成り立つことを重視します。大井は、こうした思想を手掛かりに、固定された実体としての自己という考え方を問い直しています。
ただし、現代科学が示す生命や物質の関係性と、仏教の哲学的な教えは、同一のものではありません。両者を安易に同じだと断定するのではなく、独立した実体という見方を超えて、関係性に注目するという共通点を考えることができます。
「自分が消える」という感覚を超えて
自分を完全に独立した存在と捉えると、死は、自分という世界が消滅する出来事として感じられます。しかし、自分の存在が他者や自然との関係によって成り立っていると考えると、死の意味を別の角度から捉えられる可能性があります。
自分が生きてきたことによって、誰かが影響を受け、何かが受け継がれ、世界の一部が変化しています。自分の存在は、孤立した一点ではなく、さまざまな関係のなかに位置づけられています。
この考え方は、死後に個人の意識が存続することを証明するものではありません。それでも、死を「すべてが無意味になること」と同一視しなくてもよいという視点を与えてくれます。
自分の人生が世界のなかでどのような関係をつくってきたのか。誰と出会い、何を受け取り、何を次の世代に渡してきたのか。こうした問いを通して、死を人生全体のなかで考えることができます。
生きることと死ぬことを、自然の循環のなかで考える
自然界では、生命は誕生し、成長し、変化し、やがて死を迎えます。人間もまた、その循環の外にいるわけではありません。
死を考えるとき、私たちは、自分の人生が終わることばかりに意識を向けがちです。しかし、自分が生きてきたことは、他者との関係や自然との関係のなかで生じた出来事でもあります。
もちろん、自然の循環を理解したからといって、死の恐怖や別れの悲しみがなくなるわけではありません。それでも、自分を世界から切り離された存在としてのみ捉えるのではなく、世界のなかで生まれ、支えられ、関係を築いてきた存在として捉えることはできます。
その視点は、自分の人生を振り返り、何を大切にしたいのかを考える手掛かりにもなります。
11. 「自分の死」を考えることは、生き方を問い直すこと
死を受け入れるために、無理に達観する必要はない
死を考えるとき、私たちは、最後には恐怖を克服し、穏やかに死を受け入れるべきだと考えることがあります。しかし、死を前にした人が、必ずしもそのような心境に到達するわけではありません。
もっと生きたいと願う人もいます。自分が死ぬことに怒りを感じる人もいます。家族を残していくことが不安な人もいれば、自分の人生に後悔を抱く人もいます。
そうした感情を、受容できていない証拠として否定する必要はありません。死を受け入れるということは、恐怖や怒りを完全になくすことではなく、それらの感情を抱えながら、残された時間をどう過ごすかを考えることでもあります。
本人が死について話したくないのであれば、無理に話させるべきではありません。反対に、死について語りたいと望んでいるのであれば、周囲が話題を避け続けることも望ましくありません。
必要なのは、本人の気持ちや価値観を理解しようとすることです。
自分にとって大切なものを確かめる
自分の死を考えることは、人生の終わりを準備することだけではありません。自分にとって何が大切なのかを確かめる機会にもなります。
仕事で達成したいことがある人もいれば、家族と過ごす時間を大切にしたい人もいます。自然のなかで過ごしたい人、長年続けてきた趣味を楽しみたい人、誰かに感謝を伝えたい人もいるでしょう。
人生の終わりが近づいたとき、こうした希望が明確になれば、残された時間の使い方を考えやすくなります。本人の意思に沿って医療や介護の方針を話し合うことも、より具体的になります。
ただし、人生の目標を達成できなかったからといって、その人生に価値がなかったことにはなりません。大切なことをやり残したまま亡くなる人もいます。人生のすべてを完成させてから死ぬことは、誰にとっても可能とは限りません。
人生の意味は、達成した目標の数だけで決まるものではありません。誰かと過ごした時間や、何気ない日々の経験も、その人の人生を形づくっています。
ケアする側に求められるのは、本人の世界を知ろうとすること
終末期医療や介護の現場では、患者の身体的な状態だけでなく、その人がどのような自己観を持ち、何とのつながりを大切にしているのかを理解することが重要です。
ある人にとっては、自分で物事を決め、できる限り自立した生活を送ることが大切かもしれません。別の人にとっては、家族との関係を維持し、周囲に迷惑をかけずに過ごすことが重要かもしれません。
本人が大切にしているものを理解しないまま、支援者の価値観だけで「よい最期」を決めることはできません。自分の希望を伝えられなくなった人についても、これまでの言葉や行動、家族との関係などを手掛かりに、本人が何を望んでいたのかを考える必要があります。
また、本人の意思を尊重することと、本人を一人きりにすることは違います。自立を大切にする人にも、必要な支援を受ける権利があります。家族とのつながりを大切にする人にも、自分の希望を表現する機会が必要です。
ケアとは、本人を特定の理想像に近づけることではありません。その人がどのような世界を生きているのかを理解し、その人にとって大切なものを可能な限り守ることです。
12. 「自分の死」を死ぬとは――つながりのなかで生きた人生を見つめる
「自分の死」を考えるとき、私たちは、自分という存在が消えてしまうことに意識を向けます。しかし、自分とは、身体や意識だけで成り立っているものではありません。記憶、経験、家族、友人、社会、自然など、さまざまな関係のなかで形づくられています。
病気や認知症によって記憶や人格の現れ方が変わることは、自分という存在が固定されたものではないことを教えてくれます。死に直面したときの心理も、一つの決まった型に当てはめられるものではありません。自分を独立した存在として捉える人と、他者との関係のなかで捉える人とでは、死の意味が異なって感じられることがあります。
大井玄の議論は、死を受け入れるための唯一の正解を示すというより、自己の捉え方を広げることで、死への向き合い方を考え直す手掛かりを与えてくれます。
自分が何者であるかを考えることは、自分だけを見つめることではありません。自分を育ててくれた人、共に生きてきた人、自分が支えてきた人、そして自分が生きるために必要としてきた自然や社会との関係を振り返ることでもあります。
死を考えることは、必ずしも死の恐怖をなくすことにつながるわけではありません。それでも、自分の人生が多くのつながりのなかで成り立っていると理解すれば、死を単なる孤立や消滅としてだけ捉えずにすむ可能性があります。
そして、死を考えることは、いまをどう生きるかという問いに戻ってきます。誰と時間を過ごしたいのか。何を大切にしたいのか。どのような支援を受け、どのような生活を続けたいのか。こうした問いを考えることは、人生の終わりに限らず、日々の暮らしを見直すことにもつながります。
「自分の死」を考えることは、自分が世界から切り離された存在ではなく、多くの関係のなかで生きてきた存在であると気づくことでもあります。 死を前にして何を感じるかは人それぞれですが、本人の世界と価値観を尊重し、その人が最後まで自分の人生を生きられるように支えることが、死生学と終末期ケアに共通する大切な課題なのです。
